鯖缶NFL三昧

NFL(アメフト)ファンの個人ブログです。

【コラム】僕とNFLとネットカフェとウシジマくんと

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他人にとっては多分どうでもいいレベルだと思うんだけど、僕にとってはちょっと重要なカミングアウトをしたくて。告白して、心を軽くしたいんだ。


主に2014年の話。秋から冬にかけて。僕は時々、「残業だ」とか、「臨時出勤だ」とか妻にウソをついて、通っていた場所がある。どこか。ネットカフェだ。何をしていたか。NFLを観戦してたんだ。


ははは、何の話だ。浮気をしていたわけでもなく、風俗やギャンブルにハマって借金をしていたわけでもない。「ネットカフェでNFL観戦」のために、僕はウソをついていた。なんともショボいカミングアウトじゃないか。


なんでウソをついたのか。家事、育児をサボって、「自分だけの時間」を確保すること、が後ろめたかったからなんだろうけど、でもちょっと理解できない。なぜなら、ウソをつく必要なんてなかったからだ。どういうことか。時々はウソをついていたけど、時々は「来週はどうしても見たいNFLの試合があって、有給を取ったよ」「どうしても1人で集中して見たいから、ネットカフェに行くよ」と本当のことを言って、妻はそれを嫌味1つ言わずに認めてくれていたんだ。


最初の子が生まれてから半年後には、妻がスクールに通学して僕がワンオペで子守りをする夜が週に一度あったし、妻が働き始めてからは僕も会社(アルバイト)勤務の日数を減らして、週に2日は子どもの弁当を作った。妻がママ友サークルの飲み会に行く日があっても、嫌味1つ言わなかった。何を言いたいか。「自分だけの時間を確保」という贅沢を時々は認められてもいいじゃないか、という言い訳である。


その「贅沢」を、時々は認められてもいいと今でも思うし、おそらく妻も認めてくれたと思うし、というか認めてくれてたんだけど、なんか、それでもウソをついてしまっていた。


有給を会社に申請するときも、上司につかないでいいウソをついた。「妻が実家の義母を病院に連れて行くので」とか「子どもの幼稚園の行事があるので」とか。まあ、「推しチームの試合がマンデーナイトなので」と正直に理由を言われても上司は困っただろうけど。


さて、「余計なウソを時々どうしてもついてしまった」という告白が、実は一番伝えたい話じゃない。(どちらかといえば、「ウソをついたら、それは墓場まで持っていけよ」と思ってる)


親愛なるNFLファンの皆さまに、「会社も家庭もサボって、ネットカフェでゲーパスを見る」という所業の興奮を自慢したいんである(さすがに自分でも何を言ってるのか分からなくなってきた)。


例えば、とある月曜の行動。事前に適当なウソをついて有給を取り、当日は妻にそのことを黙って家を出る。向かうのはネットカフェだ。個室に入り、ゲームパスにログインする。現地1時スタートの試合はすでに自宅で見ている、4時スタートの試合を追いかけ再生。ハーフタイムぐらいでリアルタイムに追いつく。そこからナイトゲームまでをじっくり堪能するんである。


さて、その時僕は、気が遠くなるような寂しさを、身にしみて感じていた。僕がネットカフェのブースにいることを、誰も知らない。当然だ。誰にも隠しているんだから(当時の僕は、ツイッターもやってなかった)。会社からも、家庭からも、逃げるようにして、束の間「自分だけの時間」に引きこもっているんである。


ネットカフェの個室の狭さが怖かった。あのブースの中にいるとき、僕は誰からも見放されてるような気分になった。自分で好き好んで、手に入れた「孤独」であり、半日後には素知らぬ顔で家庭に戻れることは分かってるんだけど、それでも寂しかった(たぶん、「ウソをつく」というのは「関係性を自ら裏切ってる」っていうことで、その報いなんだろう)。


で、その寂しさと後ろめたさが絶妙なスパイスになって、NFLの興奮が加速するんである。なんの因果で海の向こうのリーグに感情移入してるんだか、自分でも分からない。周囲にNFLの話をする友人もいない。自分が見てるこのNFLとかいうドラマが、本当に実在するのか確かめる術もない。


ネットカフェのブースは、宇宙空間を漂う宇宙船の小さな救命ボートみたいだった。もう、地球から遠く離れて、戻れないと知ってるのに、どうしても見てしまう。100光年離れた場所にいて、100年前に発せられた光に感情移入するような気持ち。歯ぎしりの音が聞こえてくるように、負けず嫌いをぶつけ合う選手たちが、眩しくて、妬ましくて、愛おしかった。「10000光年離れた宇宙に漂って、10000年前に発せられた光」を見てる気持ちなんだ(いつの間にかケタが増えてる)。「もう地球も人類も10000年前に滅びたんだから、応援しても意味がない」と知りながらも、「だからこそ、引き寄せられるんだろ」と、自分の心の不可思議を知る時間。


(自分でも何を話してるのかよく分かってないけど、結構正確な比喩で伝えてるつもりである。自分の心のありようなんて、不条理なものだ)


ところで、僕はNFLを見るときに、「マンガを読みながら」の観戦が好きだ。ヤバいほど感情移入してるのに「ながら見」かよ、という気もするんだけど、そうではなくて、「感情移入しすぎて怖いから、それを調節するために逆にながら見」ということ。プレーの切れ目や、CMの間にマンガを少しずつ読んで、「ダラダラ感」を自分に演出する。第4クオーターになったら。マンガをやめて画面に集中する。そのぐらいでちょうどいい。


その意味でも、ネットカフェは最適な場所だった。いくらでもマンガが読める。あの頃読んだマンガのなかで、一番僕の心を捉えたのは、「闇金ウシジマくん」である。


「闇金ウシジマくん」は、シリーズの全体を通しての主人公はインディペンデントな闇金業者である「ウシジマくん」なんだけど、各エピソードの主人公は、「ウシジマくんからお金を借りる人」で、ウシジマくんは「借金で身を滅ぼす人」を冷徹に見送る「死神兼おくり人」みたいな役回り。


このマンガが面白すぎて、NFL観戦が終わってものすごく眠いはずなのに、読むのが止まらなかったことが何度もある(一応、数巻ごとにエピソードの区切りがあるので、そこまで読んでから帰宅する)。面白すぎる、というか、本当に「怖い」マンガなんである。


何が怖いか。暴力シーンじゃなくて、「借金地獄のリアリティ」が怖いんである。各エピソードの登場人物たちは、初めはちょっとした欲(見栄、恐怖、逃避)で借金を始めるんだけど、それが「ちょっとした欲」だからこそ、なかなか簡単にやめられないのが怖い。「ちょっとした欲」は、自分に密着して容易には切り離せないんだ。それがクソ丁寧に描かれていて怖かった。僕には、「ホストに貢ぎまくる風俗嬢」が、他人事には思えなかった。


僕が好きだったエピソードは、ファッションにお金を使いまくる読者モデル(?)の男の子の話。ちょっと写真を撮られて、ちょっと有名になった快感を忘れられずに、季節ごとに最新の服や靴をどうしても注文してしまう。見栄を張って、「流行の最前線にいるためにすべてを捧げる自分」を演じてしまう。いつまでもそんなこと続けられない、とわかってるはずなのに、わかってるからこそ借金がやめられない。そんな話。


あの感覚、身に覚えがありすぎる。僕は20歳~25歳ぐらいにアマチュア劇団をやっていた。引っ込み思案だった10代の終わりに演劇を覚えて、劇団活動の「充実してるっぽさ」に夢中になった。大学も就職もサボって、演劇に膨大な時間をつぎ込んでいた。「自分には何かが表現できるはず」「自分だけの何かがあるんだ」みたいなことを思って、その「何か」のみすぼらしさに開き直る覚悟もないくせに、「芸術家気取り」を続けていた(大変恥ずかしながら、めちゃくちゃ楽しかった)。


演劇の表現力が大して上がってるわけでもないのに、やたらと公演の規模だけ大きくしようとした。練習時間を週2日から週4日に増やしたり、舞台美術の予算を倍にしたり。借りる劇場のサイズもどんどん大きくしたがった(といってもキャパ50人が100人になる程度の話なんだけど)。もちろん、その分劇団員に割り当てるチケットノルマは増え、そのためにバイトの時間は増えて大学の授業への出席は減った。


あの感じ。演劇の内容が充実すればそれも報われるけど、要するに「何が何だか分かってない」からこそ注ぎ込む時間や金を無意味に増やしてるだけであって、「将来を棒に振ろうとしてる」という感覚でしか自分の「芸術家気取り」を取り繕えなくなってたのである。恐ろしや。ウシジマくんに出てくるモデルの男の子と変わらない。僕が借金をせずに済んだのは僥倖だった。


さてこの話、「青春時代はバカだった」という話ではない。ネットカフェでNFLを見てる30代後半の僕も、大して変わりはなかった。30歳を超えてから、「映像翻訳者」になりたいと思った僕は、まだプロになれずに、正直言って行き詰まっていたんだ。20代の頃、文字通り1秒も英語の勉強をしていなかったにも関わらず、どうして翻訳者になろうと思ったのか。なれると思ったのか。


スクールに通い、朝3時起きで翻訳の課題に取り組み、それだけでは英語力不足を補えないと、通勤時間にはブツブツとシャドウイングをして、勉強に飽きた時に読むマンガですら英語にした。そうやってまあまあ必死に勉強しながらも、なかなかプロデビューできずに、諦めそうになった時にハマったのがNFLだった。


「英語の勉強になるから」と言い訳をして、勉強の合間に、BSで録画した試合を2ドライブずつ見た。勉強が行き詰まってるから、それと反比例するようにNFLにハマった。トム・ブレイディのファンになって、ゲームパスにも加入した。最初は息抜きだったはずのNFL観戦が、もう宗教的な意味を持った義務のようになって、費やす時間がどんどん増えていった。


さて、あの時の僕の気持ちを想像してみてほしい。「もう自分はプロの翻訳者にはなれないんだろうな」と心のどこかで感じていながら、でもつぎ込んできた時間を思うと、簡単に諦められない、と感じて、逃げるように隠れたネットカフェのブース。現実から目を背けるようにハマったNFL。NFLを見ても、自分の人生が好転するわけがないのに、どうしても見るのをやめられない、という状況で読む「闇金ウシジマくん」。…めちゃくちゃ身にしみると思いませんか(誰に向かっての問いかけなのか)。毎度、ほとんど泣きそうな思いで、NFLの勝負の厳しさを見て、それに呆然としながら酔っていたんである。ちょっと人とは違うかもしれないけど、僕はそうやって、NFL観戦を楽しんできた。


妻には、「このバカみたいでクソみたいな現実逃避の時間が、どういう理屈かは分からないんだけど、僕にとってはめちゃくちゃ重要な時間なんだ」と、説明できずに、その結果ウソをつくことになってしまった。


あの頃から5年以上の月日が過ぎた。大変運のいいことに、借金もせず、無事に生きている。「プロ」と言えるかは大いに疑問だけど、映像翻訳者としてのキャリアもスタートすることができた。NFLのおかげで、英語力も伸びた。「毒を食らわば皿まで」とNFLの情報を収集しまくったからだろう。


でも、コロナ禍以来、ネットカフェにはほとんど行ってない。ネットカフェが特別感染リスクが高いような話は聞かない(なにせ、客は全員ほぼ黙っている)けど、まあ僕にとってはさすがに「不急不要」すぎて行く気にならない感じ。


世の中では、ありとあらゆるものが「このパンデミックのさなかにけしからん」と、攻撃の対象になった。誰もが(多かれ少なかれ)何かを我慢して、僕自身もイライラして(というかイライラしないように神経をすり減らして)、誰かが「不急不要の用事」で楽しんでいるのを見ると「気に食わないな」と思いながら1年以上が過ぎた。誰かに攻撃的な気分になると、自分でも気づかないうちに、自分の中にある「不急不要の楽しみ」までも攻撃してしまう。「ネットカフェなんて行かないでも、生きていけるだろ」と、大雑把に自分を責めてしまう。でも、振り返ってみて思うのだ。そういう、不要不急のクソみたいな用事にだって、人生の大切なクソが詰まっているんじゃないか。(もちろん、大切だからと言って、やって許されるかどうかは別の問題なんだろうけど)


また、NFLのシーズンが始まる。僕はやはり、全力でNFLの世界に逃げ込むつもりだ。ナゾの信仰心で、観戦スケジュールを消化し続ける。妻にも、会社にも、「なんでこんなことしなくちゃいけないのか」は説明できないから、ヘラヘラと適当にウソをつきながら、後ろめたい気持ちを反芻しながら。あの煌びやかな勝負の世界の輝きに、目を焼き続けるのだ。申し訳ないけど、これが最高に楽しい。

 

(このコラムと、姉妹篇のようなコラムがあるので、よろしければどうぞ↓)

nfl.savacan3rd.com

 

(こちらもどうぞ。映像翻訳者になるまでを濃密に語っています。恥ずかしいですね↓)

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