いまだに人にうまく伝わったためしがないんだけど。僕は、「あんまり上手じゃない合唱」を聞くのが好きだ。
例えば。自転車で、子どもを幼稚園に迎えに行く道すがら。中学校の校舎から聞こえてくる練習中の歌声。なんだか泣けてくる。あんまり上手すぎない方がいい。上手いと、「音楽を鑑賞しよう」というモードになってしまう。「練習中の歌声が、偶然耳に入ってくる」ぐらいの、心にバリアがない状態で歌を聴いた方が、妙に沁みる。「音楽」でも、「曲」でも、「歌詞」でもなくて、「曲のソウルの中心」みたいなものが伝わってくる。あんまり熱心に練習してなくてもいい。みんなで一緒に歌ってるうちに、ついつい「こもってしまう心」がある。それが僕の琴線に共鳴する。
「油断した心理状態」で、「偶然」聞いた、「歌詞もよく知らない曲」を聞くのが好きだ。
昨日、NFLのスーパーボウルをネットで観戦した。ロサンゼルス・ラムズが、シンシナティ・ベンガルズに勝つまでを、見届けた。そして僕は、「なんだかよく分からないものに、理屈を超えて感動する」という体験をしたんだ。
今年のスーパーボウルは、今までとは違う気持ちで当日を迎えた。少し前にトム・ブレイディが引退を表明したからだ。ディビジョナルラウンドでバッカニアーズがラムズに敗れ、しばらくして「ブレイディが引退する」という確からしい噂が流れ、ついには本人がインスタやツイッターに感謝のコメントを出した。
それで、僕は、要するに呆然としてしまったんだ。僕は、ブレイディに魅せられて、ブレイディに惚れこんでNFLにハマったわけであって、「来シーズンのNFLに、ブレイディはいないんだ」と思いながら迎える初めてのスーパーボウルだった。まあ、今までだって、ブレイディが出場するかどうかにかかわらず、「シーズン最終戦を迎えるよるべなさ」は、多かれ少なかれあったんだけど、今回は特に、放心状態でこの10日間ぐらいをすごした。NFLのニュースは追いかける気にならなかった。「何の予習も、心の準備もなくスーパーボウルを迎える」という状況を10年ぶりぐらいに体験した。
そのおかげで、今回のスーパーボウルは、よく分からないまま始まり、推移し、よく分からないまま終わってしまった。でも、それがなんだかよかったんだ。スーパーボウルという「得体のしれない祝祭」に、心が吸い寄せられる感覚を味わえた。
今まで、何となく分かったつもりになってたけど、僕はまだ、スーパーボウルという祝祭の、2%ぐらいしか知らないな、とか思った。試合開始前に、歴代のスーパーボウルの名シーンと、映画のアメフトのシーンがコラージュされる映像が流れた(開催地、ロサンゼルスへのトリビュートでしたか)。「映画がフィクションで、フットボールがリアルと思ってるでしょう? でも、本当は違うかも。フットボールは映画であり、リアルとはフィクションなんだ」みたいな導入。(いや、違うのかも。ちゃんと聞き取れてない)
そして、映画の元ネタはほとんど知らない。スーパーボウルの名シーンも、ここ10年しか分からない。そしてこのコラージュの面白いところは、「昔の映画と、フットボールの伝説のシーン」の見分けがつかなくなるところだ。なんだかよく分からない「すごくたくさんの映画があって、すごくたくさんのスーパーボウルがあって、それらは、密度の濃いのエンタメとして、アメリカを彩ってきた」ということの迫力だけが伝わってくる。
試合開始。よくよく考えて見れば、僕はアメフトをよく分かってない。試合のポイントがどこにあるか知らない。選手も、名前と顔と背番号が一致するのは10人ぐらいだ。名前だけならもっと知ってる。ポジションも知ってる。だけど、選手の特徴とかは理解できてない。
前半、ラムズが優勢に見える。OBJを抑えきるのは難しそう。このまま優勢を広げるか、と思った矢先に、タッチダウン後のキックでミスが出る。1点取り損ねた。「嫌な予感がするな」と誰もが思っただろう。そして、OBJの負傷。もう試合に戻れないだろうことは僕でもわかる。ラムズの3点リードで前半終了。攻守ともラムズが上回っていたように思うけど、キープレーヤーの退場、ベンガルズの攻撃からの後半開始という条件を思えば戦況は互角だろうか。
ハーフタイムショー。今まで、ハーフタイムショーはあまり興味がなかったんだけど、今年は通しで見た。ヒップホップのレジェンドたちの奇跡の競演らしい。僕は、「8 Mile」を見たことがあるぐらいで、ほぼ何も知らない。だから、ショーの文脈を全く理解できてない。
だから、僕にとっては「パジャマみたいな服を着た痩せた老人が出てきた」なんである。「俺は誰の命令にも従わないから、パジャマみたいな服で人前に出るよ。でも成功者だと一瞬で分からせるために、とりあえず貴金属はジャラジャラ着けるよ」みたいな。期待をいなすような、いぶし銀っぽい雰囲気のパフォーマンス。理由はよく説明できないけど、カッコいい。引き込まれる。
ショーは、パフォーマーを変えるごとに、シリアスな雰囲気になっていく。相変わらず、僕には文脈も分からないしラップも聞き取れない。エミネムだけは知ってる。「opportunity」と「once in a lifetime」だけは聞き取れる。やっぱり意味は全然分からないんだけど、僕は感化される。怒ってるんだろ。威張ってるやつらのことが許せないんだろ。そうだよ。怒りを捨てないことは、勇気がいることだ。その怒りは、僕を勇気づける。
ハーフタイムショーが終わって、圧倒されたまま後半のスタート。ベンガルズ、25ヤード地点の1スナップ目でいきなりタッチダウン。ラムジーが怒ってる。何が起きたのか、理解できない。リプレーが流される。そうか、フェイスガードを掴まれたのに反則がとられずに、それで怒ってるのか。なんたるアンラッキー。そしてラムズ、この試合で初めてリードを許しての1つ目のプレーで、スタフォードがまさかのインターセプト。
いままで何度も見てきた「勝負は紙一重」の可視化。「そうなる可能性があることは知ってたはずなのに、実際に起きるまで忘れていたアメフトの残酷さ」じゃないか。
そこから、勝負がつくまでの1時間強は、「頭に入ってこない走馬灯」みたいだった。それぞれのプレーの意味はよく分からない。乱闘みたいなことも起きかけた。感情のコントロールのギリギリでプレーしてるんだろう。ラムズはランが出ず苦しい。スタフォードも、バロウも、膝を痛めるシーンがあった。でもプレー続行できるようだ。4Q。おそらく最後の攻守。クーパー・カップの精密機械のような勝負強さ。アーロン・ドナルドの咆哮。気づけば勝負はついていて、そして、時間は逆方向には流れない。
僕は、「ひいきのチームの出ないスーパーボウル」を「今までで一番の放心状態」で見始めて、「なんだかよく分からない」まま引き込まれて、だからこそ、よく味わえたような気がしてる。
スターたちのまばゆさに、めまいがして、ちょっとトリップするような気持ち。何だよ。こんなの、ただのゲームだろ。どっちが勝とうが、見ているこっちにとっては、どうだっていいじゃないか。と思いながらも、どうやら必死に勝ちたがってるらしい男たちの表情に心を掴まれた。涙をこらえる敗者のプライドに涙を誘われ、涙を抑えきれない勝者の感無量に、まんまともらい泣きしてしまったんだ。
アメフトの選手たちは、呪文のように「opportunity」と口にする。みんなが平等に享受できるだけの成功はこの世の中には存在しない。必ず勝者と敗者が生まれる。ならばせめて、チャンスだけは平等であってくれよ、という願いとしてのアメフト。ここでは、勝とうとすること、目立とうとすること、モテようとすること、稼ごうとすること、すべてが圧倒的に肯定される。勝負は厳しくて、運命は不条理だ。だから、せめて、「opportunity」だけは開かれていてくれ。
実際には世の中から差別はなくならず、チャンスは平等ではなく、搾取はやまず、それはアメフトの世界でも同じなのかもしれない。そんな現実から目を背けるために作られた娯楽が、アメフトなのかもしれない。たぶん、そうなんだろう。だけど、少なくとも、「願い」だけはあって、それは圧倒的な説得力で伝わってくるじゃないか。僕は、エネルギーを貰ったよ。2%ぐらいしか理解できなかったこのスーパーボウルというイベント。夢のようだった。ありがとうNFL。また、9月から続きを見せてくれ。