2022年9月8日(木) 懲りずに日記を書き始める
しまった。NFLが開幕してしまう。オフシーズンの間に、動画を見まくって、記事を読みまくって、アメフト観戦偏差値を上げてやろうと思った時もあったはずなのに、ぼんやり何も手につかない間に半年が過ぎた。
僕はただでさえぼんやりしやすいのに、この数年はあのわけのわからない感染症が流行したせいもあってか、ますますぼんやりが加速してる気がする。ただでさえ出不精で引っ込み思案の僕が、「不急不要の外出は避けよ」と繰り返し言われたら、いとも簡単にそれに呪縛されてしまう。もともと旺盛だったとは言えない好奇心をミュートして、はしゃぐ気持ちには常にブレーキをかけてしまう。
友達にも会ってない。もともと、どんなに気の置けない友人だろうと、「会ったり話したりするのは面倒だな」と4割ぐらいは思ってしまうんだ。「飲み会は非推奨」と言われたら、結構簡単に「会うのは面倒だな」の気持ちが「会いたい」に勝ってしまう。お酒はそんなに飲まない方だけど、情けないことに中年の男同士でお酒なしに会うのがちょっと難しい。もちろんお酒を飲んだっていいし、お酒抜きにあってもいいんだけど、それを考えるのが面倒で、「会いたいな」という気持ちがしぼんでしまう。
まるで、パラレルワールドにいるみたいだ。本当の世界は別にあるんじゃないか。いま、ここにいる自分が、本当の自分だと、100%の確信を持って納得できてない。
さて、それでもNFLは開幕する。どうせ今シーズンも見てしまうんだろう。それに合わせて、日記を書いてみようと思う。毎日起こることを、チマチマと書き留める。運が良ければ、ちょっとはパラレルワールド感が薄れるかもしれない。
9月9日(金) 幕が開ける
朝4時半に起きて、ブログの準備をしたりマンガを読んだり。6時に子どもたちが起きてくる。朝食を用意し、自分も食べる。ビルズ対ラムズ戦は9時20分からか。ちょっと開幕気分を味わうために、NFLネットワークでも見てやるか、とまたパソコンの前に戻る。
「スタフォードは2年目で、マクベイとの相互理解が進んでさらにスムーズなオフェンスが展開できるはず。実は伸びしろがある。アレンはOCが交代して、オフェンスの成熟度は未知数」みたいなコメントとか聞きながら、コーヒーを飲んだりして。「実際当たってるかはともかく、とりあえず成立する説をなんでも出す」みたいなのがNFLっぽくてなんか落ち着くな、と思ったり。なんで落ち着くのかは我ながら分からないんだけど。
息子氏、「あれパパ、会社行かないの?」と。ああ、そうだった。子どもたちには言ってないんだった。「今日、休みもらったんだよ」「え、なんで」「いやあ、別に理由はないんだけど。会社の人って交代で休むんだよ。疲れちゃうから、たまには休んだ方がいいでしょ」みたいな会話。
NFLを見るために有給を取ったことをとっさに隠すのがウケるな。NFLを見るために休むんじゃなくて、理由なく時々休むんだけど、休んで家にいるからNFL見るんだよ、みたいなニュアンス。
「会社を休む理由」としては、「NFLネット観戦」は不十分な気がしてるんだろう。「スタジアムで観戦するチケットが取れた」とかなら分かるけど、別にネットで見るだけだ。出勤しても、帰宅後に見ればいいじゃないか。1分ぐらいのタイムラグで見るのと、夕方に半日遅れで見るのと、本質的には何も変わらないだろ。
まあでも、現実的には、別に「休むに足る理由かどうか」はどっちでもいい、というか。会社は時々は休んだ方がよくて、そのきっかけに開幕戦リアタイ観戦があった、ぐらいで別に構わない。
「NFLネット観戦は、会社を休む理由として不十分な気がする」っていうのは、ずっと感じてたことなんだよな。去年まで、「NFL見たいから会社休むよ」って妻に言えなくて、「カラ出勤」して(会社に行くフリをして家を出て)、ネットカフェで見てたもんな(これは、なかなか罪悪感があって楽しかったんだけど)。でも今年はなんか言えた。去年までとの違いは分からない。
子どもたちが登校し、翻訳スクールの課題添削の仕事を少し。9時までに片付いて、いよいよスッキリと観戦できた。
結果はビルズの完勝。久しぶりにアメフト観戦して、「やべえ、思ったより展開速くて、情報処理が追いつかない」ってなって楽しかった。「ボン・ミラーがどの場所にいるのかを毎回確認しよう」とか思ってたんだけど、そのシングルタスクですら結構難しかった。じゃあ何を見てるのか。なかなかにシュールなことだ。
9月10日(土) 夕方に校庭で涙ぐんだりする
今日はのんびり、呆然としてダラダラと。昨日買ってきた「スプラトゥーン3」を子どもたちと交代で。「スプラトゥーン2」は結局3年弱で2300時間プレーしてた(Switchはそれぞれのタイトルのプレー時間が分かるのです)。なかなかの迫力だよな。これ、「2300時間ドブに捨てた」とも言えるし、「2300時間も遊べるものと出会えた」とも言える。「ムダにした」と思うのがつらくて「いや。ゴミこそ宝」みたいに思い込もうとしてるのかもしれないし、これ以上ハマってしまうのが怖くて、「なかなかヤバい時間を費やしてる」と自分を脅して、これ以上ハマる気持ちにブレーキをかけてるのかもしれない。
スプラの合間にはペイトリオッツの球団ページの記事を読んだり、ケンドリック・ラマーについての本を読んだり。
NFLにハマって時間をドバドバと注ぎ込むのも、「本当にこんなことしてて大丈夫なのかよ」っていう恐怖心もあり、その裏返しの快感もある。それで、「いやこれは英語の勉強の一環なので」という言い訳を自分の中に用意してる感じ。
ケンドリック・ラマーはスーパーボウルのハーフタイムショーに出たラッパーで、「アメリカのカルチャーを学んでるんだよ」と、これも自分の不安を和らげるための言い訳か。本を読むよりも曲を聴けよ、という気もするんだけど、それは「慣れ」の問題というか。
夕方になって、PTAの行事のお手伝い(「縁日ごっこ」みたいな感じで、ヨーヨーつりとかで子どもたちを遊ばせるイベント)。春の保護者会で決めた係で、当日だけ割り振られた仕事をするだけであって、準備をした委員さんに比べれば愚痴を言うほどの負担でも何でもない。…んだけど、正直言うと面倒は面倒だったよね。
何しろ、子どもたちや、他の保護者の係の人に笑顔で挨拶するようなテンションを持ち合わせていない(なんたる甘えか)。何か問題が起きたら(子ども同士がケンカしたりとか)、臨機応変に対応できるのか自信がない(ヘラヘラして傍観する予感)。1時間半の拘束とかは全然いいんだけど、「普段やったことのないことをやって、恥をかくかもしれない」という恐怖心への対処が面倒で、そして、そんな小さな自意識上の問題に囚われてるのを認めるのが嫌で、ぶっきらぼうに「ダリぃな」と思ってた。
まあでも仕方ないので出かける。係の腕章をつけたママさんにあいさつ。仕事(僕は入り口での受付)の説明を受ける。検温してそれを記入した紙を回収し、名簿にチェック。受付済みの印として、虫よけシールを子どもの服に貼る(貼らせる)、と。事前にマニュアルを読み込んでいた(LINEグループがあって、PDFが共有されていた)ので、ちゃんと仕事内容は理解してたけど、やっぱり「子どもたちに元気よくあいさつ」が最重要っぽいじゃないか。
受付の仕事は30分程度で済んで(やってみたら意外と明るく受付できた。忘れてたけど、一応オレって大人だった)、いったん解放。20分後から門の警備(帰る子がいたら門を開けて、参加賞のおもちゃを渡す)がある。それで、20分間「手持ち無沙汰にその辺にいる」っていう時間ができたんだよね。
それで、子どもたちがヨーヨーつりとか、輪投げとか、やってる様子をなんとなく見てたら、ちょっと泣けてきてしまって。自分の情緒不安定がウケるんだけど。自分の受付というミッションが終わって、緊張が緩和したタイミングで油断しのは分かるんだけど、我ながら感じやすすぎる。
でも、あんなの泣いちゃうよな。受付ではお行儀よく、スカした感じで、「どちらかと言うとしょうがなく来たんです」みたいな目をしてた子どもたち、めちゃくちゃはしゃいでるんだよ。縁日ごっこで、それこそ“子どもだまし”のシンプルな遊びでさ。大騒ぎ。
そういえば、僕も子どものころ、PTAの行事結構好きだったよ。そんなこと忘れてた。先生が仕切ってる行事とは違って、ご褒美の文房具とかもらえるし。なんか、リラックスできるユルい空気感があった気がする。
このお祭り、去年も、おととしも、コロナ予防で中止だったんだ。そりゃあそうだ。ただでさえ面倒な行事でさ。「不安に思う人も多いから中止にしましょう」っていう意見を乗り越えてまで実現さえようとできるわけがないよね。しょうがない。「中止にして、諦める」が続いたのはしょうがないよ。でも、「中止にして、諦めていたこと」を忘れてて、自分の中で「なかったこと」にしてたんだな、と思って驚いた。
「コロナ禍での不安や緊張、ツラいな」って、もう当たり前すぎて、ツラいとも気づかないほど慣れてしまって。でもやっぱり、ツラいな、ツラかったな、と思って。「マスクをして鼻までちゃんと覆ってないとめっちゃ怒られるかもしれない」って、ものすごいストレスだな。マスクはいいんだけど、その謎の緊張感がストレス。それで、そのストレスにも慣れて、それを忘れて過ごしてる(人間すげえな)。
所在なくて、緊張がちょっと緩んで涙ぐんだ20分間もあって、まったく油断してたんだけどちょっといい1日になった。とにかく、係を務める、というミッションが1つ終わってホッとした、という。
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